自己紹介的な妻缶ヒストリーです。
生まれも育ちも東京で育った箱入り娘(ちがうか)の私が、成長して現在に至るまでのお話です。
目 次
一番初めの子として生まれ、ちやほやされて育つ
私は、長女として生まれ、まだいとこもいない状態だったので、大人の中でちやほやされて育ちました。
なので自尊心は人一倍高く、常に自分は無敵だと思っていました。
3歳下の妹が生まれた時も、父が常にそばにいたので、寂しい思いをすることなく、のびのびと育ちました。
いま思えば少し過保護な両親だったと思います。
初めての幼稚園では登園拒否をし、かわりに塾へ通っていました。
塾はとても楽しいものでしたが、ある日たまたまわからない問題があり、大泣きしたのをきっかけに辞めました。
他にもバレエを習っていましたが、1つ上の生徒に頬をつねられ嫌になり、辞めました。
辞める時も両親は何も言わずに辞めさせてくれました。
転園先の幼稚園に馴染みだすと、ピアノに夢中になった私。赤ちゃん用のピアノで毎日何時間も弾き続けていたら、父が知り合いからオルガンを貰ってきました。
卒園のころには独学で両手で弾けるようになり、入学と共にピアノを習い始めることが出来ました。
自尊心が高かったから乗り切れたいじめ
小学校へ入ってからは、様々な曲が弾けるようになり、やがて学校でも伴奏を任されるようになりました。
習っていたピアノの先生からは、「ピアノが弾けることをひけらかしてはいけない」と常日頃から言われており、とにかく自慢げにならないように、地味~な態度で弾くようにしていたことを覚えています。
しかし、そんな態度で弾く私を疎ましく思う子もいたのでしょう。
「音楽の先生にひいきされている」
「伴奏しているから音楽の成績が良い」
「お父さんがPTAやっているから、選ばれる」(お父さん関係ないけどね)
など、仲の良い子からも良くない子からも言われるようになりました。
そして5年生の時。
「おーい。妻缶のブルマ捨ててあったぞ!」
クラスの男の子がゴミ捨ての際に見つけてくれ、持ってきてくれました。
それからは、体操着が水浸し、上履きの画びょう、図工で作った作品が壊される…など日常茶飯事でした。
さすがに毎日困ったなーと思った私は、両親に体操着の件だけ相談。
両親は「うーん。どうしたんだろうね。先生に聞いてみるね。」だけで話は終わりました。
数日後、担任から「心当たりある?」と聞かれましたが、知らないと答えました。
この子がやったのだろう、と検討はついていましたが、面倒なことになりそうだったので、話すのを辞めました。
同じような目にあっている子も何人かいました。
なので、別に悪い事をしたわけではないのだから、普通にピアノも弾こう!と開き直りました。
いつの時代も女子ってグループがあるので、本当に面倒くさい。
私はグループに属しつつ、順番で自分が無視される番が回ってくると、別の子の所へ行ったり、1人で図書館へ行ったりしていました。
子供も娘なので、同じような目に合わせたくないけれども、そういうわけにはいかないのだろうなぁ。女って大変だね!と少し心配です。
私が落ち込まなかったのは、両親がなんでも尊重してくれ、自尊心が高く育ったからだと思います。
「妻缶ちゃんなら出来る!大丈夫!」
「さすが妻缶ちゃんだね!」
当たり前のように言われ育ったので、30歳を超えた今でも自尊心高いと思います。
思春期爆発で反抗だらけだった中高大
いまだに親バカの母からは、反抗期もなかったと言われますが、この時期はめちゃくちゃ反抗していました。
特に「門限」で。
高校生で18時半、大学生で20時半でした。(20歳超えてからは緩くなりました)
そもそも門限が作られたのも、私に責任があるので、いまさら何も言い訳はしません。
経緯を説明すると夫がやきもちを焼くので、省略します。
ただ反抗期真っ只中でも、相変わらず強気の妻缶。
大学生になってからは、お酒に対して強気の姿勢を取り、救急車のお世話になりました。
※ワインダメ!絶対!!
そんな強気も大学3年生で打ち砕かれることに…
今までの自信が打ち砕かれた就活
内定が出るまで何回面接で落ちただろうか…
せっかく新卒で就職するなら絶対に営業!とこだわったのが悪かったのでしょう。
メーカーばかり受けていて、全然周りが見えていませんでした。
強気のはきはきキャラで最終面接へ。
↓
最終面接で社長にフルボッコにされる。
それを何度か繰り返し、さすがの妻缶も自尊心が崩れかけてきていました。
それでもほどなくして内定をGET!
妻缶は大手保険会社の営業マンになりました。
営業は辛いよどこまでも・・・
今思い出してもブラックだったなーとしか言いようのない業種。
なんでもできる!なんでもなれる!と盛大な勘違いをしていた小娘には、良い経験でした。
おかげで、何か悪い事が起こっても、異常に前向きに考える癖が付きました。
ほとんど休みなく働いたせいか、営業成績はすこぶるよく、同世代よりはかなり稼いでいました。
まぁ、給料の半分はお客様へのプレゼント代に消えていたけれどもね。
一番良かった事は、仕事を通して夫と出会えたことかな・・・。
この人が私の王子様?!
夫の第一印象
・5つくらい年上そう
・萌え袖かわいい
・鷲鼻(鼻が高い人が好きでした)
・声が良い
・挙動不審(この人びくびくしてるなー)
・猫背だけど、背が高い
ここまで3秒くらいでしょうか。
この人、独身そうだし保険入ってくれそう!そう思って声を掛けました。
しかし、来る日も来る日も無視され続けました。
これで諦めたら他の人(ほかの保険会社の人)に取られてしまう!そう感じた私は、キットカットばらまき作戦で、夫の名前を聞き出すことに成功しました。
そして色々と話をしていくうちに、まさかの年下ということが判明!
その後、無事に契約をしてもらい、私のお客様となりました。
答え合わせをすると↓
・5つくらい年上そう→2つ年下
・萌え袖かわいい→すこしだぼだぼのセーターが好き
・鷲鼻(鼻が高い人が好きでした)→父親譲り
・声が良い→父親譲り
・挙動不審(この人びくびくしてるなー)→私が怖かった
・猫背だけど、背が高い→身長差14㎝だった
やばい、私圏外だったわ・・・
実は、夫は硬派?で、私を含めて、2人しかお付き合いをしたことがありませんでした。
私はどうかって?もちろん夫だけです♡←
今まで、よくしゃべるな豚野郎というくらいおしゃべりな方としか、お付き合いの経験がなかったので、夫のように聞き上手な人が新鮮でした。
もちろん今でも聞き上手ですが、どちらかというと無口の方が近いかも。
そんな硬派な夫は、私の必死のアピールもすべてスルー。
「妻缶さんだったら、素敵な彼氏出来ますよ!」と応援される始末。
夫の同僚も「妻缶さん、脈ありだよ!」と盛り上げてくれるも、それもスルー。
当時は仕事が忙しく、結婚も興味がなかったため、“1人で生きていく”と思っていたそう。
それが今では結婚して2児の父なんて、人生わからないね~
結局、何でもかんでもスルーされるので、私が夫にぶち切れました。
私「全然気づいていないみたいだけど、何なの一体!?酷くない!?」
夫「・・・。好きです。付き合ってください!!」←なぜか切れ気味
私にぶち切れられたことで、やっと自分の気持ちに気づいたとのことでした。
気持ちに気づいてすぐ告白なんて極端だな~。まぁいいけど。
結婚後も色々ありました
お付き合いから9か月後、九州への転勤が決まり、結婚。
それまでも新幹線の距離で遠距離だったので、結婚するか、別れるかでした。
九州の温泉街で新生活が始まり、1年後には長女出産→広島へ転勤。
広島では長女の育児に関して何度か喧嘩。
2年後に東京へ戻ってきたら夫が入院。
退院後に転職。
再転職で精神の安定を得て、次女の誕生で4人家族になりました。
夫にブログを勧めた理由
30歳の節目に何か始めたい。そう言った夫にブログを勧めたのは私です。
普段、やや無口の夫と共通の話題といえば、子供と好きな漫画の話くらい。
私の趣味の話をすると、夫は良いリアクションをしてくれるのですが、もっと共通の話題が欲しい。共同作業的な!
そう思って、記録に残るブログが良いのではないかと思いました。
初めは、交換日記でもする?と提案しましたが、夫の字がとても達筆すぎて読めないので、却下されました。
私は可愛くて夫の字が好きなのになー
また、しっかりと運営をしていけば、何年も続けることが出来ます。
子育ての話題も含めることで、将来こども達が見てくれたらなぁとひそかに思っています。
最後に
ブログ。はじめはどう書けばよいのか?悩みました。
私はPC関係には弱く、仕事をしている時も、資料作りはそこそこに、話でカバーのタイプだったので、運営もしていけるか不安な面もあります。
ただ、他のブログ運営と異なるのは「夫婦のブログ」という点。
困った時は、夫婦で助け合って運営頑張ります!
まずは、読者の役に立つ情報を発信できるよう、マイペースですが、記事を投稿するので、よろしくお願いします。